インターネット、SNSが普及した現在、読書文化はオワコン化しているように考えがちですが、それはいかがなものでしょうか。確かにスマートフォンやタブレットのおかげで電子書籍だけでなく、YouTubeの動画でも知識を得られるようになったのはありがたい事です。
文字だけの情報より、画像や動画のように視覚でとらえられた方がより分かりやすいのは明らかです。本を探すより、インターネット検索した方が手っ取り早く、的確な情報を探し当てられる分、読書文化は衰退していくかのように思えます。読書は昔ながらの古びたコンテンツになってしまったのでしょうか。
実際、文明はそこまで進化していないどころか、人間自体もその文明に対応しきれていないところがあります。インターネットが情報を得られる手段であっても、情報量を得られる最適な方法ではないからです。
計算がパソコンで可能になったように、インターネットで情報が早くやり取りされ、検索で正確さ、今後のAIで推測可能なレベルに達っし、情報の速さだけが上がってきているだけです。肝心の情報を取り込むのは人間次第です。パソコンやAIによってバックグラウンドだけが進化している。
つまり、必要最小限の情報だけを迅速に得られるように技術革新が続いています。無駄な情報が一切なく、知識の幅、深みが無くなってしまっているのです。少し寄り道した方が、新たな発見があったり、探求心に繋がるものですが、それを一切排除した世界を作り上げようとしています。
データやAIにまかせっきりになってしまっては、そのAIの枠内でしかなく、人間を模倣するAI自体もその枠内でループしているにすぎなく、小さくまとまった世界になるでしょう。
AIと言えども、人間が生み出した以上、その範囲内以上の答えを導き出すは不可能です。ゲームの仮想空間の中で決められてた事しかできない状態に近いのかもしれません。人間がAIに依存すればするほど、その範囲は集約され、収束していくだけで、人間の行動自体制限されていく事になりかねません。
AIも人間に依存する存在でもあるため、どちらが悪いとかの話ではなく、にわとりと卵どちらが先かの議論をしても進展しないわけです。ただAI社会によって、人間の行動が制約されていく事になるのでしょう。
現代は、規制が多くなり、昔の方がもっと自由だったと思えるくらいで、小さく小さく生きなければならない窮屈な不自由な時代になっていると実感するくほどです。それがAIによってさらに加速していくとなると、人類が夢見てきた空飛ぶ車や宇宙開発の技術革新にAIが活躍するのではなく、真逆の管理社会でしかなくなるのです。
だいぶ読書から話は反ましたが、インターネットやSNSを利用した情報取得では、限られた結果に必然的に収束するようになってしまうわけで、それが操作と言えば、そう言わざるざる負えない矛盾にもなります。
AIの答えは、まさに禅問答と同じで、インプットが人間で、アウトプットも人間である以上、自問自答を繰り返しているにすぎないのです。あくまで正解を決定するのが人間ならば、AIは確信を得るための「よりどころ」にしかならないはずです。
要は、情報が集約されるわけですから、知識の幅が広がらず、柔軟性が乏しくなるのです。
反面、読書を情報源にするのであれば、圧倒的な情報量を文字だけで得られます。テレビや動画であれば、映像こそありますが、音声は会話のスピードと同じく、聞き手重視のためゆっくりです。
しかし、本なら黙読で、しゃべるよりも聞くよりも早く、情報が入ります。文字だけというのも、映像や音楽に惑わされず、集中して頭に入ります。本自体も、情報がまとまっているため、わざわざ無駄に検索する必要もありません。なによりも思いがけない知識が増える事で、次なる探求心や複合的な判断が可能になり、固執しない柔軟な発想が得られるのです。
AIが人類の知能を超えたと言われますが、既に人間は、パソコンですら計算スピードに敵いません。今さらAIの脅威に踊らされたところで、たいして違わないでしょう。
AIもパソコン同様、ユーザーが合って成立する世界であるのです。これが正解だとすれば、AIはそれに従うだけの、人間の多数決を答えにしているだけでもあるとすると、自分で答えを導き出した方が納得のいく場合もあるのです。
最適解だけが正解なら、経済摩擦も戦争紛争も起きないわけで、十人十色の性格がある以上、AIでも答えは導き出せず、自分だけが頼りになるのです。その知識を蓄えるために、読書が一番効率の良い方法だという事を、忘れかけているのです。
お読みいただきありがとうございました。
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